『永遠の0』のメッセージにブレは無かったか~映画化のあとのドラマ化に一抹の不安

百田尚樹氏の『永遠の0(ぜろ)』が、2013年の映画化に続き、2015年放送予定でテレビドラマ化される。映画では岡田准一さんが演じた主人公・宮部久蔵は、テレビでは向井理さんが演じる。


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何かと話題性の高い『永遠の0』

『永遠の0』は、小説や映画の内容よりも賛否両論の騒ぎのほうが印象深い作品だ。特に映画化前と映画化後に公にされた2人の映画監督のコメントが物議を醸した。

「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている。『零戦で誇りを持とう』とかね。それが僕は頭にきてたんです。子供の頃からずーっと!」
 「相変わらずバカがいっぱい出てきて、零戦がどうのこうのって幻影を撒き散らしたりね。戦艦大和もそうです。負けた戦争なのに」

(宮崎駿監督:「CUT」2013.9 インタビューより)

「『永遠の0』観て、記憶から消したくなった・・・未だに日本は特攻を美談にするんだなあ・・・自分が一番死にたくないっつって・・・死ぬなよっつって・・・それが弟分を助けたいために・・・最後行くんだよ、そんな無いわなあ。」

(井筒監督「井筒とマツコ 禁断のラジオ」にて)

マスコミや著名人による「戦争賛美」や「特攻賛美」、石田衣良氏による「右翼エンタメ」だのという批判に対して、ファンからの「どこが戦争賛美なの?」「いちゃもんつけるな!」みたいな擁護?が飛び交い、Twitter等での百田氏の反撃?もあったりしてごちゃごちゃした一切が、当然ながらかえって興行を盛り上げる結果となった。

戦争についてのメッセージを伝えたかったはずの作品が、意図しない衝突の方で話題になった残念な例とも言える。

メッセージはあるか、それが正しく伝わるか

戦争を題材にした作品であるからには、伝えたいメッセージが読む人・観る人に正しく伝わっるかどうかが重要。「死にたくなかったのに特攻させられてかわいそう」という感想に終わるような単純な作品ならば特に議論する必要もない。「岡田くんカッコイイ」という感想しか得られなかったとしたら、娯楽としては成功だが作品としては失敗だろう。

『永遠の0』は「戦争は悪」というメッセージを伝えたかったのか、そうではないのか、という最も重要な点についてはっきりしない。大切な部分がブレてなければ、作品への賛否もそれぞれ正当なものが多くなるはずだった。メッセージがあったとして、それが正しく伝わらなければ、それは作品の責任だ。

「観たことを記憶から消したい」という批評を受けて、作者自身が「そのまま記憶をゼロにして、何も喋るなよ」と反撃する。こんな言葉が作者自身から発せられるのを見ると、スタートで既にブレていたんじゃないかなと勘繰りたくもなる。

ドラマ化の意図は何か

集団的自衛権容認の件が記憶に新しい今、69回目の終戦の月を迎えて戦争に関する話題が毎日登場する。「『永遠の0』ドラマ化」のニュースに並んで、『国会、戦争知る議員が激減 衆院、戦前・戦中生まれ9%』とか『満州での肉弾特攻、悲惨さ語る「自分の足で走って戦車に体当たりする。かっこいいなんてものじゃないです。そんな悲惨な特攻があったことを忘れないでほしい」』といったニュースが目に入る。

戦争を知らない我々世代が、戦争を題材にして語るのは難しい。それを小説にしたり映画にしたりドラマにしたりすると、空想の産物にしかならないのは当然だ。だからこそ、メッセージにブレがないことが大切になってくる。「戦争は繰り返してはならない」なのか、はたまた「戦争は必要だった」なのか、それが何であれ観る側にきちんと伝わるような作品だったら、それはそれで尊重され、賛否はあっても認められる部分は認められるはず。

ドラマ化に際しても、伝えたいものが伝わることが重要。出演俳優の話題性だけで終わるような戦争作品にならないことを期待したい。

<公式サイト>

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