コミックや小説の実写ドラマ化は「原作をモチーフにした別モノ」として制作すればいい

「原作の雰囲気ぶち壊し」「登場人物のイメージが違う」などとマイナス方向へ話題が盛り上がる実写ドラマが少なくない。最近では『地獄先生ぬ~べ~』(日本テレビ)や『すべてがfになる』(フジテレビ)に「なんか違う」というネットの声が多く、”原作ファン激怒”のような見出しが飛び交う事態になっている。


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『ぬ~べ~』早々に全否定が連発

『地獄先生ぬ~べ~』(原作:真倉翔×岡野剛)の実写ドラマは2014年10月の放送開始直後からネットユーザーによるダメ出しが続き、戸田一也プロデューサーが「原作をそのまま焼き直して実写化することが正義だとは思わない」と開き直る(?)始末。

→実写『ぬ~べ~』P、批判は「宿命」 土9ブランドの挑戦

ネットの意見は手厳しいものばかり。その多くは「思い出が踏みにじらる」ことへの不快感によるもののようだ。

「酷すぎて炎上にもならない」
「もう題名”ぬ~べ~”じゃなくていいんじゃね?」
「原作知らない人たちが見て”ぬ~べ~ってこんなつまらない作品なんだ”ってなる」

キャスティングに対する不満はどのドラマにもある。また、ジャニタレを使わなければならない大人の事情があることも観る側はよくわかっている。ただ、批判派が我慢できないのは、恐らくそういう見た目の問題ではなく、裏に見え隠れする制作側の傲慢さなのではないだろうか。

『すべてがfになる』に「ありえない」の声

『すべてがfになる』(原作:森博嗣)は今までゲーム化はあっても映像化されたことがなく、登場人物の犀川創平と西之園萌絵に対する読者のイメージが空想の中ですでに確立していた。しかもこの作品群は推理作家の書いたミステリー物で、しかも理系の内容がウケた一種のマニア小説。そのため愛読者の思い入れもかなり強い。

原作を知らない人ならば十分楽しめる出来に仕上がってるにも関わらず、原作ファンが大切にしたい要素がないがしろにされていることへの批判は容赦がない。

「萌絵が推理おたくの頭のおかしいアホ女にしかみえない」
「犀川先生しゃべりすぎ」
「マジで勘弁して欲しい」
「演出してる人は原作読んだのかな」

設定や演出の悪さで役者が損をするのは非常に気の毒だ。確かに主役2名の滑舌が悪くて聞き取りにくい感は気になるが、そこは目をつぶったとしても、もう少し原作のキャラクター設定を分析してからドラマ化すべきだったように思う。

原作ファンがドラマに没頭できない理由は役者だけではない。
「タバコとファッションとスポーツカーへのこだわりは欲しかった」
「犀川先生がWindowsとかありえない Unixだろ」
「変な思考展開シーンが邪魔」

気になり始めたら我慢できないのは誰でも同じ。結局のところ、このドラマも原作へのリスペクトが足りないのだ。



制作側が「批判は宿命」と思っている時点でダメ。原作の設定を大切に思っているかどうかは作品を観れば自ずとわかること。批判を前提に作るのならば、それは単なる確信犯。悪いことと分かってやっている”原作レイプ”に他ならない。

原作のあるものをドラマ化する場合、表題を変えて別のものとして作ればいい。「原作をモチーフにしてオリジナル要素を加えました。だから原作の名称は使いません」と。そうすれば何の問題も起こらないし、炎上もしない。原作の通りに作る気がないのに原作と同じ表題を堂々とつける”パクリ行為”が売名などと蔑まれ、嫌われるのだ。

日本のテレビドラマの評価がどんどん下がっていくのは、やはり制作側に責任がある。「何のために制作するのか」「どの役者を使うのが成功につながるのか」が後回しになって、”人気アイドル”や”人気女優”ありきで造ったものは、所詮ひまつぶし作品。後々何度でも楽しめるような名作にはならない。

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