西宮市の”偏向報道”拒絶に、「メディア倫理」とか「報道規制」以前のレベルの低さを感じた

何かと話題になる今村岳司市長(兵庫県西宮市)が、「偏向報道」に対しては取材を拒否する旨を、23日の定例会見で発表しました。

具体的には、

重要政策の報道に関し、市が「偏向報道」と判断した場合、メディア名と抗議文を広報誌とホームページ上に掲載する、と発表した。「偏向」かどうかは市が判断し、「改善されない場合、今後、その報道機関の取材に応じない」(神戸新聞より抜粋)

というもので、「偏向報道」かどうかの判断は、

「取材を受けたにもかかわらず、市の言い分が十分に報道されなかった」ケースを「偏向報道」と定義する(同抜粋)

とのことでした。

→西宮市長「偏向報道」なら取材拒否 市が判断、メディア名も公表


たまたま関西では、その前日に橋下徹・大阪市長による「情報統制」が話題になったばかり。橋下市長が市幹部に、大坂都構想に関して「メディアに『できない』などの個人的感想を言うな」という主旨の指示を出したという、対メディアに対するあれの話です。

→橋下市長、都構想で職員に「できないと言うな」

世間ではこれらの出来事について様々な意見が交わされています。「公的機関が自らに都合の悪いことを排除する動き・・・」云々の意見などいろいろと・・・。

でもここでは難しい議論は置いておきます。こういうことがある度に最近つくづく思うのは、次のようなことです。

いい歳をした大人同士が、お互いに自分に非はないと思い込み、問題をこじらせ続けて、結果的にストレス過多の日本(世界)をつくっている

まあ、簡単な言葉で表現するならば、

ちっとは仲よくしろや!

という感じでしょうか。



政治家もマスコミも、お互いに相手が悪いと思っている。市長と職員はお互いに足を引っ張り合っている。国民と政治家はお互いにそっぽを向いている。これって恐らく、古代のローマやギリシャの時代から変わってないんじゃないかなあと。

政治理念や宗教、あるいは私利私欲や話題性、名声が欲しい、目立ちたいなど、お互いに大切にしているものや欲しているものが違う。誤解や齟齬が生じるのは当たり前。理解し合う努力は端から諦めているので、誰もが「こうなったら自分の信念のもとに、好きなように進めさせてもらう」と開き直り、自己防衛や合理化・正当化に走ります。

誰もが同じなので、お互いにストレスが溜まりまくり。まわりも負のオーラに引っ張られるので、いいところなんて目に入らない。

個人同士でも政党間でも、個人の勝手な「良い悪い」「好き嫌い」で判断するため、みんなが不機嫌になり、上手くいくものもうまく進まない。同じ国の個人の間でそれなのだから、国家間では尚更うまくいかない。平和に解決したかのように見えて、裏でお金が動いている・・・。



とまあ、脱線しまくりました。

協力し合えばいろいろなことがスムーズに進むし、余計なストレスも生じないのに、好んで拒絶し合う。人間のサガってやつでしょうか。争うのが大好き。

世界中で愛されているSF作品『スタートレック』の世界では、24世紀の人類は飢餓、戦争、病気、飢饉、および貧困の問題は完全に克服しており、社会貢献と自己成長が目指すべきものとして浸透しているという設定になっています。おとぎ話ではありますが、羨ましい限りです。

現代の日本のように責任者がこういうことばかりしてるうちは、ネクストジェネレーションへの到達は絶対に無理ですね。

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